ワラント 上級者への道

infomation

『eワラント必勝テクニック』をみてみよう

藤井英敏氏、黒岩泰氏による『eワラント必勝テクニック』は、これからeワラントに挑戦しようという方も既に始めている方にもお勧めの一冊です。 『eワラント必勝テクニック』は、知識編、分析編、実践編に分かれています。 まずは、eワラントの基礎知識。ここは飛ばしてもいいという方は、次の分析編へ。 『eワラント必勝テクニック』では、エクセルでRSIを計算する方法,窓・ひげ理論の概略などまで載っています。 前半は初心者の方でも充分に理解できる内容となっていますが、後半は慣れてくるとだんだんとわかってくる内容になっています。 そして、実践編へ。 ここでは、フィスコの情報が掲載されています。『eワラント必勝テクニック』の監修がフィスコになっていますので、当然のことでしょう。 『eワラント必勝テクニック』は、eワラントを知る上で、必要かつ役立つ情報を網羅しています。 FX 初心者に鹿児島常備隊がつくられたときは大隊の教佐となり、藩が御警衛兵を派遣したときは第二大隊を率いて上京した。明治4年(1869年)に西郷隆盛・大久保利通が政府改革案を以て上京した際は、木戸孝允・板垣退助・山縣有朋らとの会談に護衛を兼ねて同行した。同年、西郷が廃藩置県に備えて御親兵を率いて上京したときには、一隊を率いて市ヶ谷旧尾張藩邸に駐屯した。このとき陸軍少佐に任官したが、病気を理由に7月に免職した。 明治5年(1872年)、征韓論に関連して西郷隆盛が朝鮮・満洲の軍事偵察をさせたとき、8月8日、外務省十等出仕に任じられ、8月16日、武市正幹・彭城中平とともに満洲に派遣された。この偵察は日本最初の軍事偵察で『西南記伝』に「満洲視察復命書」という抄録が残っている。武市は早くに、彭城は満洲偵察後は帰国したが、池上は清国内部の偵察を続け、西郷下野を知った6年(1873年)12月に帰国した。 日経225に私学校が創建されたとき、池上は病気で積極的な関与はしなかった。その後も私学校の不体裁を好まなかった。明治8年(1875年)、県令大山綱良が西郷に区長・副区長の推薦を依頼したとき、その相談に与った。 明治10年(1877年)の西南戦争(西南の役)の際は、西郷刺殺計画に憤慨して挙兵に賛成し、篠原国幹が部隊編制、桐野利秋が各種軍備品の収集調達、村田新八が兵器の調達整理、永山弥一郎が新兵教練、池上が募兵を担当した。出陣のときは、桐野が総司令兼四番大隊指揮長、篠原が一番大隊指揮長となり、池上は五番大隊の指揮長(大隊長)となって10個小隊約2,000名を率いた。副隊長に当たる第一小隊長は河野主一郎がつとめた。乃木希典の連隊旗を戦獲した村田三介(実際の戦獲者は伊東隊の岩切正九郎)などの小隊もこの大隊に属している。 先物取引を発した薩軍は2月21日夜、川尻で軍議を開いた。この軍議で池上は熊本鎮台を抑えるための兵を一部残し、全軍北上する策を出したが入れられず、篠原国幹らが主張する全軍による熊本城強襲が採用された。翌2月22日、池上は桐野利秋とともに熊本攻城正面軍を指揮した。2月24日、政府軍を挟撃すべく桐野(三箇小隊)が山鹿、篠原(六箇小隊)が田原、村田新八・別府晋介(五箇小隊)が木留に進出すると、池上は残る薩軍21個小隊約4,700名を率いて熊本攻城戦を一人で指揮した。しかし、3月4日から激戦となった田原その他へ徐々に手許の兵を派遣して兵が減少したため、ついに鎮台軍が籠もる熊本城を落とすことはできなかった。4月8日には安巳橋の戦いで敗れ、政府背面軍と熊本鎮台との連絡を許した。 4月21日、薩軍(党薩各派を含む)が浜町に後退すると本営参謀に専念した。4月29日、人吉に後退してからは三田井(高千穂)方面の司令を兼ねるなど、本営参謀と方面司令を兼ね、併せて後備・病院などの経営も兼務した。これ以後は、豊後方面に進出した野村忍介指揮の奇兵隊を延岡から指揮・後援して延岡・宮崎間に一時勢力を張ったが、長くは続かなかった。薩軍が宮崎・延岡・熊田などで敗退を重ね、8月17日、長井村の可愛獄を突囲する際は別府晋介とともに約60名を率いて西郷を護衛した(『大西郷突囲戦史』に依る。「鎮西戦闘鄙言」では村田と池上が中軍を指揮し、西郷と桐野が総指揮をとったとする)。突囲後、西郷隆盛に従い、宮崎・鹿児島の山岳部を踏破して鹿児島に帰った。9月24日の城山陥落時は西郷隆盛の自決を見守った後に桐野・村田らと岩崎口の塁をめざして進撃、途中、弾雨の中で自刃した。享年36。 先物取引には「四郎、天資聡敏にして才幹あり、又韜略(とうりゃく)に通ず、其軍中に在るや、兵士を馭する、甚だ紀律あり、其事を処する、裁決流るるがごとし、故に其声望、或は桐野利秋に亜ぐに至る。西郷隆盛、嘗て四郎を評して曰く『四郎の智慮周密、張子房(張良)の流亜なり』と」という評が残っている。才幹(才能)に秀で、軍略家であり、事務処理能力もあったので、池上は戊辰戦争・満洲偵察では軍事参謀、西南戦争では軍事参謀・方面司令・後備事務・病院を一人で担当している。酒豪としても知られ、満洲偵察時には強度の焼酎を飲んで寒を凌いだという。 天保9年(1838年)、永山休悦の第一子として薩摩国鹿児島郡荒田村に生まれる。名は盛弘、通称は弥一郎という。弥一郎は茶坊主(薩摩では特殊能力を有しない若侍は一時茶坊主とされた。例えば西郷従道など)として初出仕し、万斎と称した。弟の永山休二(盛武)も西南戦争に従軍した。 弥一郎は若くして勤王の志を抱き、これに奔走した。文久2年(1862年)、有馬新七らに従って京都に上り、挙兵に荷担して失敗(寺田屋騒動)したが、年少であるという理由で処罰を免れた。慶応3年(1867年)、京都詰となり、陸軍で教練に励む一方で、中村半次郎(桐野利秋)らと市中見回りをした。 戊辰戦争のときは、城下四番小隊(隊長は川村純義)の監軍として鳥羽伏見の戦いに参戦した。次いで東山道軍が大垣、池上、内藤新宿を経て白河に進撃すると、四番小隊の幹部として有数の激戦であった白河攻防戦で戦い、白河城陥落後は棚倉に転戦した。この棚倉戦で重傷を負い、横浜病院に送られたが、療養途中に全治と称して無理矢理に隊に帰った。会津若松城に進撃する際は、川村指揮の下で十六橋の戦いに勇戦した。 明治2年(1869年)に鹿児島常備隊がつくられたときには、大隊の教導となった。明治4年(1871年)、藩が御親兵を派遣した際には、西郷隆盛に従って上京し、陸軍少佐に任じられた。 しかし、ロシアの東方進出を憂えた弥一郎は、身を以て北方経営に当たらんと考え、志願して開拓使出仕に応じ、北海道に赴いた。明治6年(1873年)、征韓論が破裂して西郷が下野し、近衛の将校が大挙して退職したときも、彼らと行動をともにしなかった。 明治8年(1875年)、軍に復して陸軍中佐に任じられ、屯田兵を率いたが、政府が千島樺太交換条約を締結したことに憤激して、職を辞して鹿児島へ帰った。永山の考え方は必ずしも私学校党と同じではなく、政府在官者を無能とはせず、大久保利通や川路利良らを高く評価し、在官者は日々進歩していると説き、私学校党に与しなかった。この当時新政府を擁護することはかなりの勇気のいることであった。ただし過去の抜群の軍功と勇敢さによって、批判を受けることはなかったとされる。 明治10年(1877年)、中原尚雄の西郷刺殺計画を谷口登太から聞いた高城(たき)七之丞邸の会合に弥一郎も同席し、憤激したが、出兵するか否かを決した私学校本校での大評議では大軍を率いての上京に反対し、西郷隆盛・桐野利秋・篠原国幹の三将が数名の供をつれて上京し、政府に問罪すべきと主張したが、西郷の身を案ずる意見が強く、策は入れられなかった。出兵に応じない弥一郎を最初、辺見十郎太が説得したが不調に終わり、仲が良かった桐野の熱心な説得で漸く同意した。出陣の際には桐野利秋が総司令兼四番大隊指揮長となり、弥一郎は三番大隊指揮長となって、10箇小隊約2000名を率いた。 熊本城攻囲戦に際しては、最も遅れて到着し、割り込む隙がなかったので、弥一郎の部隊の多くは予備隊として後詰めをした。2月24日、第一旅団・第二旅団が南関に着くと、池上四郎に熊本攻囲軍の指揮をまかせ、政府軍を挟撃すべく、桐野利秋が山鹿、篠原国幹が田原、村田新八・別府晋介が木留に出張本営を設け、弥一郎は政府軍上陸に備えて海岸線に主張本営を設けた。3月14日、黒田清隆・山田顕義が率いた別働隊が八代南部の日奈久に上陸したので、弥一郎は迎撃のために南下した。しかし、黒田・山田等の主力部隊は熊本城救援に向い、弥一郎の部隊(約八箇中隊と砲二門)は新たに上陸した川路利良の別働第3旅団と御船でと戦うことになった。